昭和26年、民営の九電力体制の整備にあたり、電気料金の適正価格算出を行った。各電力会社の要望は76%の値上げというものだった。電力需要の上昇に伴い、燃料の石炭が需要に追いつかず、できたばかりの電力会社にとっては発電設備も乏しく停電解消が精一杯の経営状態であったためである。値上げに対して世論の猛反発があるなか、安左エ門は日本復興のため10年、20年を見通して、値上げは必要なことだと主張した。まさにこのとき「電力の鬼」と呼ばれたのである。結局、GHQの命令で値上げが実施されたが、結果的には低迷をしていた電力株が高騰し電力業界が活性化した。その資金により電源開発にも成功し、日本の高度成長期を支えていったのである。
安左エ門の先見性は留まることを知らず、昭和31年には日本の政・財・学・官界のトップで構成する「産業計画会議」を自ら主催し、16のレコメンデーション(勧告)を発表し、議員や大臣、関係者に働きかけた。専売公社の廃止、国鉄の民営化、高速道路の整備など、日本の近代化を推し進めるプロジェクトであり、その大部分が後世に実現している。あわせて、電力設備の近代化と電源開発も推し進めた。水力に頼っていた電源が火力へシフトすると予測し、燃料も石炭から石油へと設備を拡充していった。さらに、原子力へも目を向け、昭和41年には研究所内に事務局を置く「フェルミ炉委員会」を発足。技術者などを次々とアメリカへ派遣した。日本の原子力基盤を築いた多くは、このときの研修生である。その後も、昭和43年には、電気事業研究の国際的協力と情報交換を目的とするIERE(電気事業研究国際協力機構)を発足させた。日本の将来にわたる電気事業の基盤づくりすべてが安左エ門の手によって築かれていったのである。
昭和46年、95歳で亡くなるまで電気事業の世界に、そして経済界、産業界に影響を与え続け、近代日本の発展を導いていった。没する直前まで毎週電中研に通っていたという逸話も残されているほど、その熱意と気迫、行動力は並大抵のものではなかった。その根気強さと人の役に立つために誠実であること、将来を見通した先見性は、今も電中研のSPIRITとして息づいている。
徹底した現場主義
77歳になった安左エ門は各地の諮問会に出席し、多忙にも関わらず福島にある只見ダムの建設計画を聞くとすぐに現場に飛んで行った。安左エ門の視察は大臣や高官のものは違い、自動車が入れないような場所にある粗末な小屋に泊まり、ドラム缶の風呂に入り、第一線で働く工事現場の人たちの苦労を味わう、というものだった。その目や体で確かめないと納得しない。只見に限らず、九州のダムであっても同じであった。現場を見て回る癖は死ぬまで直らなかったと言われている。
≪参考文献≫
『松永安左エ門』自叙伝松永安左エ門 日本図書センター発行
『松永安左エ門伝』宇佐美省吾著 東洋書館発行
『わが人生は闘争なりー松永安左エ門の世界ー』 松永直美著 香椎産業株式会社出版部発行
『松永安左エ門ー生きているうちに鬼といわれてもー』 橘川武郎著 ミネルヴァ書房発行