社会経済研究所

社会経済研究所 コラム

2016年7月28日

読書日記(2):謎のアジア納豆注1

社会経済研究所長  長野 浩司

 今回は、電力・エネルギーと直接関係の無い内容で恐縮です。ですが、中程で、研究者にとって銘ずべき心持のようなことをお話ししますので、ご容赦下さい。

 7/16-18の3連休で、積みっぱなしになっていた本を消化しようと思い、まずは高野秀行著「謎のアジア納豆−そして帰ってきた<日本納豆>」(新潮社刊、2016)を手に取りました。

 高野氏の著作では、「謎の独立国家ソマリランド−そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア」(本の雑誌社刊、2013)を読んだことがあり、今回も大いに期待してページを開きましたが、期待をはるかに上回る面白さで、久しぶりに「一気読み」してしまいました。

 高野氏は、「辺境中毒!」(集英社文庫、2011)なる著作もあるとおり、「辺境突撃ジャーナリスト」とでも呼ぶのが相応しい方のようで、今回も以前のミャンマー内戦時の山岳地帯の取材で偶然巡り合った「納豆卵かけご飯」の記憶をきっかけに、納豆に類するものがある限り、ミャンマーに始まり中国からネパールまで駆け巡ります。

果ては、日本も含めて納豆なる食材が「山の民」の調味料兼保存食として同時多発的に発生したものの、「平野の文明」の魚醤やスパイス、チーズなどに取って替わられ、徐々に辺境に押しやられ、そこで根付いたまま現代まで生き残ったものである、との「学説」に行き当たります。

さらには、自らの「学説」の正しさを立証しようと、縄文人が入手できた材料で納豆が製作できることを、自らの手で検証するのです。

 さてここから、若干我田引水的になりますが、研究を生業とする者として、この書あるいは高野氏の行動や姿勢を見た際に、参考として見習うべき点が多いように思われましたので、これを列記してみたいと思います。

 まず、尽きることのない好奇心と探求心、あるいは対象への強い拘り(執着と言ったほうが適当かもしれません)と同時に、学問的なフェアプレー精神とでもいうべきものです。ともすれば忘却の彼方に消えそうな細かい記憶に拘り、一体何だったのかを突き止めるまで、諦めるということがありません。知りたいと思ったことに対して、高野氏は虚心坦懐に数多の文献にあたり、先人の門を叩き、得られる教えを貪欲に求めます。

そこには遠慮もない代わりに、自説に固執してその立証に都合の良い材料だけを集めよう(注2)というような邪心もありません。

 そして、その好奇心と探求心に突き動かされての行動力と実験精神。どんなに困難が付きまとおうとも、自らの足で現地に出かけ、眼で、手で、舌で体験しなければ納得しません。さらには製造法や料理法を習い、果ては自ら製作もしてしまう。

 私自身の体験でも、といっても高野氏には及びもつきませんが、ある国際会議でたまたま耳にした「回収可能性(retrievability)」という単語が頭にこびりついて離れず、数年後に本格的に勉強し、その成果を当所の報告書(注3)にまとめたことがあります。 「核物質の国際共同管理」という概念が流行った頃、飛びついて勉強した経験(注4)も、これに共通します。

ある一つのテーマをライフワーク的に追及する(あえていえば、栽培型の)研究者も多くおられ、それはもちろん大切な姿勢ですし尊敬すべきものです。

しかし、こと社会科学系の、しかも世の中に現存する問題の解決を志向する研究では、そのような好奇心に突き動かされ、徹底的に拘って追求してみる、そして探索が終わればまた次の対象に移行するという、いわば狩猟型の研究姿勢も重要であると思うのです。

 高野氏はジャーナリストであって、何も納豆を題材に比較文化人類学の理論体系を打ち立てようとか、学位を取ろうとかといった意図はないですし、今回の一連の作業や成果も純粋に「研究」としてみれば、網羅性(事例の数)や汎用性(共通点の抽出)、再現性に欠ける、あえて言えば突っ込みどころ満載ではあります。

しかし、上に列挙した姿勢や精神力は、研究を志す「プロ」としても学ぶべきものであり、純粋に頭の下がる思いです。いや、何も無理やり研究と結び付けずとも、日本からは遠い異郷のルポルタージュとして純粋に面白く読めます。分野違いと言わず、一度手に取ってみられてはいかがでしょうか。

 1日で読了してしまいましたので、余勢を駆って同著者の「恋するソマリア」(集英社刊、2015)も一気に読破しました。こちらは前掲書「謎の独立国家ソマリランド」の続編にして、そのクライマックスには著者自身が加わった車列が地元のイスラーム反政府勢力アル・シャバーブの襲撃を受ける、壮絶な戦闘シーンを迎えます。

 この小文でご興味をお持ちになった方もおられるかと思いますので、あえて付言します。続編である「恋するソマリア」だけを読んでも面白いですが、ぜひ前編の「謎の独立国家ソマリランド」を予習してから読まれるようお勧めします。

続編で頻出する「氏族」は、前編に周到な解説があり(よくぞここまで調べたもの!)、主な氏族を「藤原氏」「平氏」「源氏」などと呼ぶ痛快極まる独自解釈が述べられます。そして、(当時)世界最悪の危険都市にしてソマリア連邦共和国の「首都」モガディシュを「リアル北斗の拳」と呼びつつ現地突撃取材するに及んでは、もはや嘆息するばかりです。なお、続編では、かなり様変わりしたモガディシュを再訪していますが、その結末は・・・上述したとおりです。

 今後も時折、読書日記をお届けしたく、よろしくお付き合いをお願いします。

  • 注1:今回のタイトル「読書日記(2)」としたのは、本メルマガの配信開始時の5/30コラム「メルマガの配信開始にあたって」に、ジリアン・テット著「サイロ・エフェクト」の感想を書きましたので、後追いでこれを(1)と呼び、(2)以降を続けていくことにしたものです。併せてご記憶戴ければ幸いです。
  • 注2:ここでSTAP細胞「事件」を例に引くのは適切を欠くかもしれませんが、科学的真実に対して揺るがぬ誠実さをもって向き合い続けることが研究者の生命線であることは、改めて肝に銘じたいと思います。
  • 注3:「放射性廃棄物処分における回収可能性」調査報告Y02001.私どもが「回収可能性」という概念に注目したのは2001年、今から15年前です。日本ではさほど関心が高まっていませんでしたが、欧州諸国で盛んに議論されていました。超長期にわたる放射性廃棄物地層処分の安全性確保には、一般の方々のご理解を得ることがなかなか難しいものです。数十万年もしくはそれ以上にわたって「何もおかしなことが起きない」ことを立証するのは大変ですが、「何かおかしなことが起こっても、廃棄体を回収した上で修復できる」ことを証明することができれば、あるいはこの問題の突破口が開けるかもしれません。
  • 注4:「原子力の国際管理構想−目的、要素と今後の対応−」研究報告Y05006「市場からみた原子燃料の供給保証構想−現状と課題−」調査報告Y07021.原子力技術や核物質を国際管理下に置くとの議論が2000年代中盤に国際的な盛り上がりを見せた際に、私もいち早く飛びつき、自分なりの見解をまとめるとともに、この頃に国際条約や国連安保理決議、G7サミット合意文書などを勉強したことが、前回・前々回に述べた地政学的な知識や理解の基盤となりました。

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