社会経済研究所

社会経済研究所 コラム

PDF版 2021年3月15日

科学と政策の間の舵取りの難しさ
―東日本大震災、原子力事故からの10年後に寄せて(注1)

電力中央研究所 社会経済研究所
 副研究参事 田邉 朋行

1.科学と政策の間の舵取り

 科学と政策との間の舵取りをとることは難しい。特に未知のリスクや低頻度ではあるもののその影響が大きい(低頻度高影響)リスクに直面した場合はなおさらである。

 例えば、今私たちが直面している新型コロナウイルス感染症の拡大は、不確実性を伴うものの、無対策でいると私たちの生命・健康や生活にとって深刻な影響をもたらすリスクである。これと対峙・対応していくためには、国の政策、つまり国の役割と責任が非常に重要となる。全国的な感染状況を見据えた上での感染拡大防止策の決定、海外との往来制限、ワクチンの輸入など、国でなければ行うことのできない政策的意思決定や施策が多数あり、それらはいずれも感染症対策の要諦だからである。

 国、とりわけ行政が、これらの意思決定や施策を行う際にその判断の拠りどころとするのが、科学的知見(根拠)と専門家の意見である。国の対策が公表されるたびに、私たちはメディアなどを通じて国の専門家の見解に接し、対策の意義や根拠を確認している。

 しかし、新型コロナウイルス感染症が2019年末に世界(中国)ではじめて報告されてから未だ1年少ししか経っていない。このため、本感染症については、感染のメカニズムやウイルスが人体に及ぼす影響について、未解明な点も多い。例えば、欧州などで感染拡大が起こった当初は、マスクを着用しても感染を確実には防ぐことができないなどの理由から、日常生活でのマスク着用に懐疑的な見方を示す専門家もいた。しかし、その効果が研究や実例で明らかになるにつれ、今ではほぼすべての専門家が人の集まる場所でのマスクの着用の意義や重要性を認めている。このように、感染症拡大のリスクと同様に、その対策の拠りどころとなる科学的知見についても不確実性(科学的不確実性)があり、その内容も日々更新され続けている。このため、科学的知見のとりあげ方をめぐって対立が起こることも珍しくない。

 科学的知見のとりあげ方をめぐる対立は、感染症対策が経済活動の停滞(注2)に代表される別種のリスク(対抗リスク)をもたらすことによって先鋭化しうる。当然経済活動への悪影響を懸念する専門家は、より「穏やかな」感染対策を求める。そして、複数ある科学的知見の中からその主張を補強する知見を選択し、根拠として示す。一方、感染症拡大を何よりも懸念する専門家は、より「厳しい」対策を求め、その主張を補強する知見を根拠として示す。

 国、行政は、専門家間の科学的知見のとりあげ方をめぐる意見の対立や相違の中で、難しい舵取りと判断を迫られることになる。

2.「国の責任」に対する2つの異なる科学的知見の解釈

 科学的不確実性を伴うリスクへの対応について、後から国や対策義務者の責任を問うことは、単純でやさしい問題ではない。なぜならば、どの科学的知見にもとづいてどのような対策をとるべきだったのか(あるいはとる必要はなかったのか)、について事後的に評価することは、たとえ評価する側が専門家(プロ)であったとしても判断が分かれうるからである。

 福島第一原子力発電所事故の国の法的責任(賠償責任)という視点から一例をあげよう。

 今年(2021年)に入ってから、国の責任(国家賠償責任)を問う避難者集団訴訟で、同じ東京高等裁判所で結論が全く異なる2つの判決が下されている。1月21日に出された「群馬避難者訴訟」控訴審判決(注3)では一審の前橋地方裁判所判決(平成29年3月17日)が認めていた国の賠償責任が否定され、その一方で2月19日に出された「千葉避難者訴訟」控訴審判決(注4)では一審の千葉地方裁判所判決(平成29年9月22日)が否定していた国の賠償責任が認められたのである(注5)

 この責任の有無の判断の決め手の一つとされたのが、2002年7月の段階で将来の津波地震発生の可能性を指摘・公表していた、国の地震調査研究推進本部(注6)の「長期評価」の知見に対する裁判所の評価である。「長期評価」は、三陸沖北部から房総沖の日本海溝寄りの領域でマグニチュード8クラスのプレート間大地震(津波地震)が約400年間に3回発生しており、同様の津波地震がこの領域のどこでも発生する可能性がある、としていた。

 もしもこの知見が国による津波対策の(東電への)命令を義務づけるに十分な知見であると評価されるならば、公表の時点で国に津波発生の予見可能性(あるいはその認識)があったことになり、規制権限(事業者への津波対策の命令)を事前に行使しなかった国の責任(規制権限の不行使)が問われうることとなる(注7)。一方、「長期評価」がそこまで十分な知見ではないとされるならば、「長期評価」に基づく規制権限行使義務は認められず、国の責任は問われない。

 この点に関して、1月の「群馬避難者訴訟」控訴審判決は、「長期評価」の知見を根拠に国に直ちに安全対策を講じさせる義務(経済産業大臣に技術基準適合命令を発すべき作為義務)を認めるためには、「長期評価」の知見に、国がその規制権限を行使するかどうかを判断するに十分な「科学的、専門技術的な見地からの合理性」がなければならないとした。そして、「長期評価」の指摘する津波地震発生可能性の知見(上記)については、策定の過程で専門家の間から異論があったことや、国の関係7省庁(注8)による「地域防災計画における津波対策強化の手引き」(1998年)を補完・具体化するものとして土木学会が「長期評価」の公表直前に公表し、国(経済産業大臣)が規制権限行使の判断のための知見としていた「原子力発電所の津波評価技術」(2002年)の内容と整合がとれていない点などを指摘して、(直ちに対策の実施を求める規制権限の行使を義務付けるに十分な)「科学的、専門技術的な見地からの合理性」を有する知見であったと認めることは難しい、とした。こうして、国の予見可能性と規制権限の不行使を認めず、国の責任を否定したのである。

 一方、2月の「千葉避難者訴訟」控訴審判決は、土木学会の「原子力発電所の津波評価技術」も地震調査研究推進本部の「長期評価」も、いずれも同程度の「相応の科学的信頼性のある知見」であると評価した上で、新たな知見である「長期評価」を規制権限行使の判断の基礎としなかったことは「著しく合理性を欠く」とした。そして、同判決は、国は「長期評価」が公表された後に東電に依頼するなどの方法で「長期評価」で示された見解に依拠して津波評価をしていれば、発電所に敷地高を大きく超える津波が到来する危険性を認識できたはずであり、その認識に基づいて津波対策を講じる命令を出していれば、事故には至らなかったとして、規制権限の不行使と事故との間の因果関係を認め、国の責任を肯定した。

 これらの訴訟は、いずれも上告がなされており、将来最高裁判所の判断を仰ぐこととなろう。

3. 科学的不確実性と「後から」責任を問うことの難しさ

 同じ裁判所が1ヶ月も経たない間に結論の異なる2つの判決を出したことは、奇異に映るかもしれない。しかし、これまでの裁判例や最高裁判決によって判断についての一定の方向性が定まっていない事件(この避難者訴訟がまさにその例である)では、当事者(この場合は避難者である原告)が異なれば訴訟戦術も当然異なるし、しかも事件が異なれば審理を行う裁判官も異なるのだから、判断が分かれるのは当然であり、またやむを得ないことなのである。

 このように2つの判決は「長期評価」の知見について異なる評価をした。もちろん、評価者が裁判官ではなく、地震や津波に関する専門家であったならば、より専門技術的な知見に基づく評価をなしえたかも知れないし、その可能性は高い。しかし、仮にそのような形で評価がなされたとしても、「長期評価」策定の過程で様々な意見が出された事実などに鑑みるならば、それが当時の知見として信頼のおけるものであったかどうか、についての評価が一義的に定まるとも思えない。

 しかも、ここでさらに留意しなければならないことは、裁判官によるものであれ、専門家によるものであれ、リスクやその知見に対する評価は「起きてしまったこと」に大きな影響を受けうる、ということである(注9)。結果を知ったとき、それがあたかも最初から予想できていたかのように考えてしまうという「後知恵バイアス」(hindsight bias)から一般市民はもとより、専門家といえども逃れることは難しい。低頻度高影響のリスクについては、事前にごく少数の専門家のみが警鐘的な意味を込めてリスクの存在を指摘し、権威ある学術誌などにその研究成果を公表することが珍しくない。そしてその場合、多くの専門家はそれを喫緊のリスクとしては認識しない。しかし、いったん事象が起きれば、多くの専門家はそれを「起こりうるもの」として認識しなおす(注10)。そして、事前にそのリスクを指摘した研究や知見を、過度に「信頼性のあるもの」と評価してしまいがちなのである。

 こうなると、対策を講じる側は、後から責任を問われないようにするためには、少数説であれ何であれ、一定水準の信頼性が確認されるものについてはあらゆる科学的知見を集め、それをもとに対策をとらなければならなくなる。対策は当然コストを要し、また対抗リスクを増大させうる。

 今回の新型コロナウイルス感染症についても、様々な予測が権威ある機関によってなされ、日々更新されている。しかも、福島第一原子力発電所事故の際に問題となった津波の予測や事前対策の場合とは異なり、今問題とされているリスクへの対処は「今は起きていないが将来起こりうる」リスクへの対処ではなく、「すでに起き始めたリスク」への対処である(注11)。そして、感染者数、医療機関の収容能力、変異株の登場など、その状況は日々刻々と変化し、関連する知見も日々上書きされている。リスクが進行・拡大すれば対策をとるまでの時間的余裕もなくなる。

 このような場合に、どのように科学的知見を取り入れ、それをどう対策へと結びつけていくべきか。そして、その当否や妥当性を評価したり、その責任を問うたりする場合に、どのような知見や作法によるべきなのか。その解決の糸口を探すことは容易ではない。

4. 意見対立に巻き込まれる科学と専門家

 新型コロナ感染症の拡大、そして10年前の福島第一原子力発電所事故のように、科学的不確実性を伴うリスクであり、しかもそれが私たちの生命や健康、あるいは生活に大きな影響を及ぼしうるものである場合には、様々な知見や言説が飛び交い、それが対策の評価や結果責任をめぐる対立の構図を生み出す。

 本来、この対立や相違を踏まえた上で責任ある意思決定をするのが国、行政の役割である。しかし、その意思決定は民意を無視して行うことはできない。

 そして、私たち民意は、意識的に、または無意識的に、自分の意見とあう科学的知見や専門家の意見を取捨選択している。自分の意見にあわない決定や施策がなされると、その決定や施策の根拠となる知見やそれを提供した専門家を激しく非難することもある。本来、リスクの発生やその拡大を未然防止・抑制するために必要とされ活かされるべき様々な科学的知見や専門家の提言が、もっぱら相手の意見を否定することのためだけに利用されるとしたら、それらの役割を毀損することにもなりかねない。

 これを避けるためには、信頼のおける科学的知見とその蓄積を可能とする仕組みの構築を基本に据えた上で、社会全体として人々が受け入れられるリスクの水準を熟議の上で決め、その水準に抑えるために必要とされる対策や規制については国民が受け入れる(当然それなりの補償は必要である)かわりに、結果責任については国が責任を負う、つまりコストについては私たちが税の形でそれを負担する、というのがとりあえずの教科書的な模範解答であろう。しかし、このような意思決定システムは、これまでの日本社会ではあまりとられてこなかった。そして、福島第一原子力事故の発生はこの意思決定システムの構築に向けた一つのきっかけとなりえたはずであるが、少なくとも国レベルではその議論が事故後進んでいるようには思えない。

 今まさに現在進行形である、新型コロナ感染症を巡る国の対策や施策(あるいは不作為)について、その法的責任が問われるような事態に仮に将来至った場合、百花繚乱状態とも言える現在の科学的知見はそこでどのように評価されるだろうか。国の責任はどのように判断されるであろうか。そして、10年後もまた、今と同じような議論を繰り返しているのだろうか。

  • 注1:10年前の東日本大震災、そして昨年からの新型コロナウイルス感染禍でお亡くなりになった皆さまへ深く哀悼の意を表します。また、福島第一原子力発電所事故によって故郷からの避難を余儀なくされた福島県の皆さま、そして、多大なご負担や不安をおかけした日本国内の皆さまに、電力中央研究所及び同社会経済研究所よりあらためて深くお詫び申し上げます。
  • 注2:世界銀行の「世界経済見通し」(2021年1月)によると、2020年の世界経済は前年比-4.3%成長、日本経済は前年比-5.3%成長になると見込まれている(World Bank Group, Global Economic Prospects, January 2021, TABLE 1.1)。https://www.worldbank.org/en/publication/global-economic-prospects (last visited Mar. 12, 2021)
  • 注3:東京高判令和3年1月21日公刊物未登載(平成29年(ネ)第2620号)。
  • 注4:東京高判令和3年2月19日公刊物未登載(平成29年(ネ)第5558号)。
  • 注5:本コラム執筆時点(2021年3月12日)では、国の賠償責任について判断を下した高等裁判所レベルの判決はこの他に仙台高等裁判所の令和2年9月30日判決(「生業(なりわい)訴訟」控訴審判決)があり、そこでは、国の賠償責任が認められている。
  • 注6:地震調査研究推進本部は、阪神・淡路大震災(1995年1月)の発生を契機に、日本の地震調査研究を一元的に推進することを目的に地震防災対策特別措置法に基づいて設置された政府の特別な機関である。
  • 注7:もっとも、国による規制権限行使義務(作為義務)の存否の判断については、被害の予見可能性の他にも様々な要因(例えば、被侵害利益の重大性など)が考慮されるため、予見可能性の存在のみをもって直ちに規制権限行使義務(作為義務)が発生し、不作為の場合にはその責任が問われる、ということではない。
  • 注8:国土庁、農林水産省構造改善局、農林水産省水産庁、運輸省、気象庁、建設省及び消防庁(いずれも1998年当時の名称)。
  • 注9:岸本充生「レター:エマージングリスクとしてのCOVID-19―科学と政策の間のギャップを埋めるには―」日本リスク研究学会誌29(4): 237-242 (2020)、238ページ。
  • 注10:岸本前掲(注9)は、世界経済フォーラム(World Economic Forum; WEF)が毎年実施している、世界の有識者(1000名程度)に対する今後10年間の「グローバルリスク」の発生可能性と発生時の影響についての評価アンケートの結果を例に、それを論じている(238ページ)。なお、当所の長野所長も同レポート(2018年版)について本コラム(https://criepi.denken.or.jp/jp/serc/column/column23.html)で紹介している。
  • 注11:岸本前掲(注9)239-240ページ。

参考文献

  • [1] World Bank Group, Global Economic Prospects, January 2021.
  • [2] 岸本充生「レター:エマージングリスクとしてのCOVID-19―科学と政策の間のギャップを埋めるには―」日本リスク研究学会誌29(4): 237-242 (2020).

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