社会経済研究所

社会経済研究所 コラム

2018年9月27日

読書日記(8)フランス革命とナポレオン、と脇役たち

社会経済研究所長
 長野 浩司

 今回こそは、冒頭に少しだけ経済の話しが出ては来ますが、大筋は文学すなわち趣味の領域であり、当所webサイトでご紹介するのは如何なものかと鼻白む方もおられるかもしれませんが、何卒ご寛恕をお願いしたく存じます。
 夏休みに読んだ本に触発され、学生時代に読んだ本を読み返すことにしました。

○ナポレオンの実相

 杉本叔彦「ナポレオン−最後の専制君主、最初の近代政治家−」(注1)は、その天才的軍事力や、王妃ジョゼフィーヌとの逢瀬などのエピソードを中心に、英雄としてあるいは面白おかしく人となりを描き出す類の伝記が多い中で、歴史学者である著者が現存する史料から「正しい」ナポレオン像とその功罪に最大限の接近を試みた、研究業績と呼べる書です。そこでは、副題に示されるとおり、フランス革命以前の王政から共和政に移行するも、後に皇帝に即位するという変節に象徴される、君主としての施策の二面性に注目します。
 フランス革命からナポレオンの興亡を辿るフランスの歴史は、一つには所有権(私有財産権)を巡る、権力側(既得権益を享受する側)と市民側のせめぎ合いであったことが、本書で鮮やかに描き出されます。そしてナポレオンは、1804年制定の「フランス人の民法典」(後の「ナポレオン法典」)において、『「万人の法の前の平等」「私有財産権の不可侵」「経済活動の自由」』を定め、『法秩序に基づく近代市民社会へと進む扉を開いた』つまり『革命の成果である自由・平等を法の上に固定した』のでした(『』は本書からの引用、以下同様)(注2)。
 ただし、経済活動の自由を認めたといっても、ナポレオンのマクロ経済政策は、結局のところ「コア」が「ペリフェリー」を収奪する(注3)、つまり戦役により外縁部(イタリア、プロイセン)を侵略して新たな領土、すなわち農産物その他の富の源泉と同時に自国製品の市場を得ることに主眼がありました。そして、イベリア半島侵攻(1807)と駐屯に成功するも、地元からの抵抗と長引く消耗戦に陥り、目ぼしい富を得るに至らなかったという最初の失敗が、その打開の方途としてのロシア戦役(1812)に向かわせることとなりました。

〇ナポレオンの転落

 この書に触発され、以前に読んだ本を発掘して読み返してみました。その一つが、トルストイ「戦争と平和」(注4)です。これは、ピエールとアンドレイ、あるいはナポレオンが登場する場面であれば対峙するロシア側総帥クトゥーゾフらを中心とする、ロシアの大河物語ですが、ナポレオンは軍事的天才の名声をほしいままにする敵役として登場し、本書のクライマックスともいえるボロジノの戦い(1812年9月7日)で、それまでの連戦連勝の余勢を駆って勝利するも、多大の損害を喫し、得意の絶頂から落胆の底に突き落とされる端緒となった様が印象深く描かれます。
 ナポレオンのロシア進軍と遁走について、よく人口に膾炙した「ロシア側の深謀遠慮により、モスクワまで深くおびき出された末に」あるいは「ナポレオンのモスクワを占領しようという野心が強過ぎ」、冬将軍の到来により撤退せざるを得なかった、という理解に対して、トルストイの解釈は大きく異なり、いまなお新鮮です。ロシア側については、『戦争の全期間を通じて、ロシア軍の側にはフランス軍をロシアの奥深くおびき寄せようという意欲などなかったばかりでなく、(中略)全ては敵をおしとどめるために行われていた』、さらにナポレオン(フランス軍)は『戦線の延長を恐れなかったばかりでなく、一歩前進するごとに、それを勝利として喜び、これまでの戦いとはちがって、戦闘を求める意欲にひどく欠けていた』と指摘します。
 そして、ボロジノの戦いの場面に至っては、『フランス軍の兵隊たちがボロジノ戦でロシア兵を殺すために進んで来たのは、ナポレオンの命令に従ったのではなく、自分自身の希望によってなのだ。(中略)モスクワを守り固めている軍隊をみて、《栓を抜いた酒は飲まねばならぬ》と感じたのだ。もしもナポレオンが今になって彼らにロシア軍と戦うのを禁じたとすれば、彼らはナポレオンを殺して、ロシア兵と戦い始めただろう。』と断じます。歴史的必然とは、こういうことを指すのか、と、眼から鱗の落ちる思いです。
 一兵卒に至るまで自らが完璧に統率し支配していたはずの自軍が、自らの意思を持ちつつ勝手に戦いを展開する情景を眼にして、ナポレオンは敗北の可能性や己の能力の限界を初めて目の当たりにしたのではなかったでしょうか(注5)。

〇そして、影の名脇役

 実は、この小文は、以下に述べる書とその主人公をご紹介したいがために起草したとさえ言えます。ツヴァイク「ジョゼフ・フーシェ−ある政治的人間の肖像―」(注6)では、フランス革命直後に代議士として頭角を現し、ロベスピエールらの不興を買い、対決に至るもこれに土壇場で辛くも勝利し、後にはフランス皇帝となったナポレオンの下で警務大臣を務める(注7)という、激しく変化する社会の頂点で風見鶏よろしく振る舞いつつも長く権勢を失うことの無かった稀有な人物(近世におけるもっとも完全なマキャヴェリスト)の実相を、容赦なく明らかにします。これも「伝記」に類するのでしょうが、主人公としての徳の無さは徹底しており、常に舞台裏で目立つことなく冷徹に状況を見極め、瞬時に掌を返して多数派に就く振る舞いを貫き通した様は、最後にはかえって痛快にさえ思えてきます。
 本書で描かれるフーシェの「掌返し」の代表例を、少しだけご紹介します。

  • 1793年1月16日、国民公会において、国王ルイ16世の処刑か助命かの議決が行われた際に、前日まで助命を(公に声高にではなく、友人に対してではあったが)断言していたにも拘らず、冷静な「票読み」の結果、急進派にすり寄り死刑に票を投じた。
  • 1794年、ロベスピエールとの対立が激化した結果、国民公会でのロベスピエールの(名指しこそしないが、明らかにフーシェに対する)弾劾演説を受け、革命裁判所への出頭が間近に迫る中、陰で議員に根回しを続け、一夜にして形勢を逆転、ロベスピエールの弾劾に成功した。ロベスピエールは直ちに投獄され、処刑された。
  • 1799年、総裁政府により警務大臣に任命された直後、かつて自らが党首を務めたジャコバン党の閉鎖を命じた(注8
  • 1815年、ナポレオンの「100日天下」の終焉の際、警務大臣として仕えながら、またしても陰で議会の多数派工作を仕掛け、ナポレオンの仇敵ラファイエット侯爵を表に立てて論戦を挑ませ、ついにナポレオンを退位に追いやった。

 これほど異様で面白く、しかしあまり知られていない人物も珍しいのではないでしょうか。ご興味持たれた方には、ぜひご一読をお勧めしたく存じます。

  • 注1:杉本叔彦「ナポレオン−最後の専制君主、最初の近代政治家−」岩波新書(2018)。なお、コルシカ島生まれのイタリア系であったナポレオンの姓名の発音は元来「ナポレオーネ・ブオナパルテ」だった、というのも、言われてみれば、ではあります。
  • 注2:この評価の裏腹として、夫婦間の権利不平等の放置、あるいは植民地での奴隷制度の温存など、人権問題での無策ないし無関心において、『近代世界の大きな流れに、ナポレオンは竿さそうとはしなかった』と杉本は指摘します。
  • 注3:軍事力による侵略という手段を採らず、通商及び為替の統一ルールを敷いた上で経済力で支配することにより、コアがペリフェリーを収奪するという構図を、近年のEUに読み取ることができます。たとえば以下をご覧下さい。竹森俊平「逆流するグローバリズム」PHP新書(2015)。
  • 注4:レフ・トルストイ「戦争と平和」(1865-1869)。なお、本文中の引用(『』で示しました)は、藤波貴訳(岩波文庫)によります。
  • 注5:トルストイは、ロシア戦役末期のフランス軍の著しい士気の低下を『ものすごい勢いで振り上げた手が力なく落ちるという、夢に似た感じを味わっていた』と表現し、これをもってボロジノ戦をロシア側の『精神的な勝利』と断じています。
  • 注6:シュテファン・ツヴァイク「ジョゼフ・フーシェ−ある政治的人間の肖像−」岩波文庫(1979)が入手可能です。
  • 注7:杉本著にも、フーシェが『異能ともいえる優秀な人物』として少しだけ登場します。優秀な人物を登用する「業績主義」も、ナポレオンの近代的先見性の一つとして杉本著で強調される点です。
  • 注8:ツヴァイクは、この瞬間『フランス革命は終わった』と指摘します。

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