2018年6月21日
本稿を執筆しているのは2018年6月20日、開催中のサッカー・ロシアW杯で、日本がアジアチームとして初めて南米チーム(コロンビア)を破り、一勝を挙げた翌日です。開始早々の相手選手の反則退場という要素はあったものの、試合時間を通じて、日本チームの全員がなすべきことに集中し、献身的にプレーを貫徹していたように思います。プロである以上、目の前の仕事に誠心誠意全力で取り組む、ということの大切さを、改めて教えられたように感じました。
さて、今回は、開催国であるロシアについて、私自身のささやかな経験と記憶から、いくつか申し上げたいと思います。あまり電気事業や研究とは直接関係のない内容で恐縮ですが…
〇陽の沈まない国
私はロシアには3回渡航しています。2001年7月の私的な旅行(サンクト・ペテルブルグ、モスクワ)の後、2002年9月(サンクト・ペテルブルグ)と2003年5月(モスクワ他)に国際会議出席のために出張しました。どれももう15年以上前になります。
最初に行った際には、7月のサンクト・ペテルブルグということで、日没が深夜11時、しかし日没後もあたりは薄明るく、3時過ぎにはもう日の出と、本当に暗くなることがありませんでした。話には聞いていたものの、いざ実体験すると、驚きも一入でした。
〇ホテルでのトラブル
とくに2002年の出張の際には、一応現地では3つ星という扱いになっているホテル・ルス(注1)に宿泊したのですが、部屋が粗末なのはさておき、二つの点で閉口しました。
まずは、水道です。バスタブがあったので入ろうと思い、お湯を出してみると、源泉かと見紛うばかりの真っ茶色の水が出てきました。これではシャワーも浴びられない…と途方にくれましたが、5分も出し続けているとある程度の透明度になったので、眼を瞑って入浴しました。
さらに深刻だったのは、蚊です(注2)。日本の蚊よりも足も胴体も太く、刺されると痒みは強くないものの、直径1.5cmほどに赤く硬く盛り上がります。最初の晩で10数か所も刺され、翌朝同宿の会議参加者にこぼしたところ、ホテルの売店で殺虫剤入りマットと加熱器を売っていることを教えてもらい、慌てて購入しました。おかげで翌晩からはパタリと刺されることもなくなりましたが、いま思えばこの殺虫剤入りマットは恐ろしく強力なものだったのではないかと思われてなりません。
〇トイレ事情
尾籠な話で恐縮ですが、ロシアに限らず辺地や途上国では、とくに清潔さや機能にかけては世界でもトップの日本に慣れ親しんだ身には、この種のトラブルは付き物です。私も、後述の2003年の遠征の際に、途上のボルジャという田舎町の近郊で、人生最悪のトイレに遭遇しました。ただ、このあたりはあまり詳しくお話しするものでもありませんし、椎名誠著の秀逸な先行文献(注3)もありますので、ご興味ある方はそちらをご参照の上、ご想像下さい。
モスクワやサンクト・ペテルブルグの中心部にいる限り、カフェやデパート、地下鉄駅といった具合に、緊急避難所に困ることはありませんが、郊外に出ればいろいろな危険が待ち受けています。私は先進国に行く際にも常備していますが、ウェットティッシュは非常に優れた護身具だと思っており、とくに辺境に赴かれる際には携行を強くお勧めします。
〇高級ホテルも
2003年に利用したモスクワのダニロフスキー・ホテル(注4)は、一転して豪華で機能的、大いに気に入りました。元々修道院だったそうですが、入り口やロビー、階段なども見事な内装でした。中心部からは南の郊外になりますが、お勧めできるホテルです。レストランも秀逸ですが、個人的には、大通りを渡ったところに店を開いていた屋台で買い食いしたピロシキが忘れられません。
〇旧ソ連製の航空機
隣国の国家元首の専用機など、旧ソ連のブランド(イリューシン、ツポレフなど)で製造されていた航空機に搭乗する機会は、もうほとんどないと思われますが、2003年のモスクワ出張の際には、旧ソ連の核開発関連秘密都市クラスノカメンスクへの遠征(注5)の機会を与えられ、計4回の搭乗機会を得ました。
2003/5/16 モスクワ・ドモジェドボ(注6)⇒クラスノヤルスク、Kras Air(注7) ツポレフ134型機
5/17 クラスノヤルスク⇒チタ、Kras Air ツポレフ134型機
5/21 チタ⇒イルクーツク、航空会社名不明、アントノフ24型機
5/21 イルクーツク⇒モスクワ・ドモジェドボ、シベリア航空(注8)ツポレフ134型機
ツポレフ134型機は、通路を挟んで3-3席の配列で、同じくT字尾翼のボーイング727型機や、ボーイング737型機などと同様ですのでそれほどの違和感はない(注9)ですが、圧巻はアントノフ24型機です。双発のプロペラ機、2-2列で40人ほどの定員。何ともアンティークな内装や装備ももちろんですが、驚いたのは、空いている座席の背を前に倒すことができ、これを足置きにする同乗者がいたことです。
写真を撮り損ねたのは痛恨の極みですが、強く記憶に残っています。
〇バイカル湖
アントノフ機に揺られて到着したイルクーツクで、半日ほどのトランジットを利用して、バイカル湖観光の機会を得ました。あいにく本降りの雨で、仄暗い湖畔を写真に収めるのが精一杯でしたが、世界最深の淡水湖ということで、これも印象深いです。湖畔のホテルで供された、バイカル湖固有の魚料理も、非常に美味でした。
〇観光名所も少しだけ
このあたりは優れたガイドブックが多数出ていますので、あえて繰り返すまでもないかと思いますが、帝政ロシア以来の歴史的・文化的資産は素晴らしいものがあります。もちろんサンクト・ペテルブルグのエルミタージュ美術館、モスクワのクレムリンは必見ですが、個人的なお気に入りを二つ挙げます。
モスクワのトレチャコフ美術館(注10)は、主にロシア画家の作品を収蔵しており、知名度ではエルミタージュやルーブルに劣るものの、絵画の質は非常に高いと感じました。あえて1点挙げるとすれば、ペロフ作「ドストエフスキーの肖像」を推します。
サンクト・ペテルブルグ近郊では、ペテルゴフ(ピョートル宮殿、(注11))は、大げさなようですがロシア最大の見物です。その名の通り、ピョートル大帝の夏の離宮で、壮麗な建物も素晴らしいですが、何より噴水庭園が有名です。楽しいだけでなく、当時の技術力の凄さを実感させてくれます。サンクト・ペテルブルグから電車か水中翼船で簡単に行けます。
〇レニングラード蜂起
私の国際応用システム分析研究所(IIASA、オーストリア)派遣滞在(1990/10-1992/1)当時の恩師であるユーリ・シニアック(Yuri Sinyak)博士は、齢80歳を越した現在もロシア科学アカデミーの経済予測研究所に籍を置いています。2002年の渡航時に久しぶりにお目にかかり、いろいろお話しを伺った中で最も印象に残っていることを書き、シニアック博士への思い出と感謝の記としたいと思います。
シニアック博士は、同地に生まれ育った子供時代に、1941年から3年近くに及んだ「レニングラード包囲戦」を経験し、生き残りとなった一人だそうです。当時の悲惨な様子を詳しく伺うことはできませんでしたが、老境を迎えた現在、戦時の英雄として、年金や公共交通機関の完全無料措置など様々な特権を与えられているそうです。前半生は言い尽くせぬご苦労があったかと想像しますが、穏やかで幸福な余生を過ごしておられることに安心した次第です。
〇ロシア人との付き合い方
IIASA滞在中は、シニアック博士だけでなく、多くのロシア、ウクライナはじめ旧ソ連圏・東欧諸国の出身者と親しく交流する機会を得ました。その間、旧ソ連情勢は日に日に激動を重ねて行きましたが、とりわけ1991年8月のゴルバチョフ大統領(当時)軟禁事件(「8月クーデター」とも呼ばれています)の際に、多くの旧ソ連出身者が心を痛め、ゴルバチョフ氏が無事姿を現した際には深い安堵のため息を漏らしていたのが、強く印象に残っています。
ロシア人全般、あるいは旧ソ連圏・東欧圏諸国民にまで広げてよいと思いますが、日本人に対するある種の尊敬の念を持ってくれているように感じます。小さい国土であり、第二次世界大戦の敗戦国でありながら、そこから立ち上がり高度経済成長を成し遂げ、自動車(注12)を初めとして優秀な製品を多く供給していること。あるいは、日露戦争(1904/2-1905/5)で強大なロシア帝国に対して一歩も引けを取らなかったことも、記憶に残っているかも知れません(注13)。もちろん、プーチン大統領ほどの叡智と経験を持つ人物ともなれば全く別の話になりますが、こと普通の市民であれば、言葉の問題さえ解決すれば、真の友人になることはさほど難しくないという印象を持っています。
〇原子力の国際管理
少しは真面目なことも記しておきます。2回の出張は、2002年がIAEA主催、2003年は米・露の科学アカデミーの共催による、使用済み原子燃料の国際共同管理・貯蔵の可能性を議論する専門家会議でした。ロシアは、広大な国土とともに、他国の廃棄物の輸入についての法的な制限を緩和した(注14)ため、他国の使用済み燃料を受け入れて貯蔵サービスを提供することで、国際貢献や国際社会での地位向上とともに、外貨獲得のチャンスとしても狙っていました。このあたりの議論は、その後IAEAを舞台に、原子力の国際管理構想あるいは核燃料供給保証構想(注15)として盛んに議論されました。
2003年の会議での議論の結果は、会議の論稿集(注16)として公刊されており、私も日本の状況について1章(注17)を分担執筆させて戴きました。いま読み返すと、当時想定していた状況とは(原子力発電所の稼働についても、六ケ所再処理工場の竣工についても)全く異なることと同時に、当時既に懸念されていた問題が未だに懸案事項であり続けていることに、改めて驚かされます。当時専門家会議で真剣に議論したことを思い返すと、原子力の問題は、(国際公共財としての正の側面、廃棄物管理という負の側面の両面から)国際的な共通課題として俎上に乗せて議論し直すことも考えるべきではないか、と思うこの頃です。