社会経済研究所

社会経済研究所 コラム

2018年5月11日

読書日記(6):生業としての研究者と、その闘うべき敵

社会経済研究所長 長野 浩司

〇「ニセ科学」とその周縁

 学術研究機関に所属する研究者として、その健全性において守るべき規範や倫理といったものが厳然と存在する一方で、それを脅かす、あるいは一顧だにしない敵対者ないし活動といったものも存在します。伊与原新「コンタミ−科学汚染−」(注1)は、ジャンルとしてはサスペンス小説ですが、学術研究にも腕に覚えのある著者(注2)の新作にして、それら科学的営みに対抗する、あるいは裏をかく動きに光を当てた、学術研究を志す者としても参考になる書です。

 本書には、そのような「敵」として、以下のようなものが出現します。本書の説明を引用します。

  • ニセ科学:「魔法や占いは、科学ではない、非科学だ。(中略)非科学の中には、科学を装ったものが存在する。でたらめな科学用語をちりばめ、あたかも科学的であるかのように見せかけて、人々をだます。それが、ニセ科学だよ。」(本書p.18)「疑似科学」という語もよく使われますね。
  • ディプロマミル:「金銭と引き換えに、学士号や博士号を授与する機関のことだ。有り体に言えば、学位が金で買える。」(本書p.167)
  • オープンアクセスジャーナル:「一般に学術誌は、それを購入した研究機関や個人が支払う代金で経営している。(中略)それに対して、オープンアクセスジャーナルは基本的にオンラインの雑誌で、だれでも記事を閲覧できる代わりに、その多くは論文を投稿した研究者が掲載料を支払うことで成り立っている。ここ数年、そのオープンアクセスジャーナルが爆発的に増え、論文の質の低下が懸念されている。どのジャーナルもとにかく論文をかき集めようと必死で、査読−専門家による掲載の可否の審査−が甘くなっているからだ。」(本書p.40)

 さらに、本書の主題として提示されるのは、ニセ科学で頻用される常套句、「万能」「自然」「波動」「固有振動数」あるいは「ナノ量子」といった諸々のキーワードに、非専門家である一般市民が謂れのない魅力を見出し、自ら騙されていくという現象(注3)です。社会や科学が複雑化するにつれて、そのような現象はより根深く、強く、定着してきたように思います。技術や製品を科学的に開発・応用して人類に益を届けようとする研究者にとって、その旨とする営みを真っ向から否定することにつながりかねない、非常に手強くかつ厄介な「敵」です。本書は、それを真正面から捉え、描いています。

〇「敵」との闘いにどう臨むか

 取り上げられたテーマゆえ、本書を読み始めた時点では、本書を大絶賛しようと思っていましたが、いざ読了してみると少し悩んでしまいました。

 第一の悩みは、そのような「敵」と闘い、退けていくことは、研究者という生業に就いている以上、自らの存立を守る上で当然のことであり、心ある者一丸となって取り組むべきことです。ただ、それにどれほど努力せねばならないのか、努力すべきなのか、本書を読み終わって一層悩んでしまいました。上記のうち、とくに手段であるディプロマミルやオープンアクセスジャーナルについては、 その世評と価値を上げない(さらには、下げる)ことで需要を断ち切ることが有効と考えられます(注4)。その一方で、既に数多あり今後も次々に現れるであろう「ニセ科学」には、いったいどう立ち向かえばよいのでしょうか。本書の重要な脇役として登場する、ニセ科学の糾弾者として全力を奮う教授と助教のコンビも、その信念や、とくに助教の実体験に根差した強い思い(注5)には敬意を表したいと思う一方で、自分がそうしたいか、そうなりたいかと問われれば、自分の持つ限られた時間やエネルギーを投じるにはあまりに際限の無い闘いであって、むしろプラスの価値を生み出す活動に向けるべきなのではないか?という疑問を拭い切れませんでした。

 第二に、私自身がどの登場人物にも感情移入でき切れなかったということがあります。ニセ科学の側の人物は言うに及びませんが、それに立ち向かう側のうち、主人公の圭(大学院修士1年)は、研究室枠での就職を望むがゆえに、(上記の助教自身かなりの変人ではありますが、その助教に)「性格破綻者」とさえ呼ばれる指導教官(准教授)の雑用係(それも、自ら「奴隷」と慨嘆します)の身分を甘受する、主体性も矜持も感じられないやわな若者です。その准教授は、実績や能力はさておき、自らを「メジャーで四番を打つような超一流のプロ」(本書p.288)と誇示し、圭を徹底的にこき使う、どうにも好感の持ちにくいキャラクターであり、何よりいまどきこのような典型的アカハラ教員がその存在を許されるものでしょうか。紅一点の女性研究者は、科学的真理に対して愚直に向き合うところは良いのですが、なぜ自らのキャリアを投げ打つ(准教授の台詞を借りれば「研究者としての死」(本書p.46)を選ぶ)までのことをするのか、私には共感し切れませんでした。

 とは言え、このあたりの受け止めには、個人差もあろうかと思います。冒頭の合コンのシーンを始め、各情景や個々の登場人物など、細かいところまでよく描けており、面白く頁が進みます。まずは、プロの研究者のみならず、研究者を志す方も、お手に取ってみてはいかがかと存じます。

  • 注1:伊与原新「コンタミ−科学汚染−」講談社(2018)。
  • 注2:著者のFacebook上の略歴によれば、「1972年、大阪生まれ。神戸大学理学部卒業。東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。専門は地球惑星物理学。博士(理学)。」とのことです。
  • 注3:本書では、『神秘の深海パワーで飲むだけでがんが治る、「万能深海酵母群」VEDY』なる商品を巡る謎が解き明かされる過程が焦点です。 結末を明かすわけには参りませんので詳しくは申しませんが、人間は本来弱い存在であり、たとえそれが科学的根拠や実績に乏しいものであったとしても、何かにすがりたい、何かに希望を見出したいと思わずにいられないものです。 本書の結末で明かされる真相では、そのような弱い者の思いと、それを傍で支える者の思いが交錯します。 このあたりの「思い」は、当コラム『「トランス・サイエンス」について』で論じた「科学の側からも政治の側からも接近を試みても届かない要素」の一つであり、どのように向き合うかが難しいものの一つと改めて認識しました。
  • 注4:関連してもう一つ、備忘録的に書いておきます。学術論文を擬態するニセ科学に対抗する上で「追試」、すなわち同じ条件で再実験を行い、その再現性を検証することで、当該論文のデータや結果の信憑性を問うことが、基本的かつ有効な反証方法になります。しかし、本書p.202で「STAP細胞騒動」への言及として示されるように、科学として「正しい」ことを証明するためには同じ条件であれば必ず同じ結果が出なければなりません(そうでなければそのデータは異常値として棄却されねばなりません)が、可能性にすがりたい「思い」に対しては、たった1回でも(それも、単なる偶然や、他の要因の効果であったかもしれないのに)望ましい効果が発現すれば信じるに足るものに映ります。このように、科学とニセ科学とではそもそも乗っている土俵が違い、勝負しているルールも全く違うのですが、一般の方々にどれほど理解して戴けるか。これも難問です。
  • 注5:福島の出身ゆえ、「被災者を喰い物にしようとするやつら」を「絶対に許さない」(いずれも本書p.86)。私自身、東日本大震災・福島第一原子力発電所事故の後に、当研究所の東京電力支援の窓口役を務めました際に、災害直後にも関わらず(悪意によるか、純粋な善意の発露かは別として)その混乱や弱みに乗じようとするかのような動きを頻見しましたので、その思いの一端はよく理解できます。

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