2018年5月11日
〇「ニセ科学」とその周縁
学術研究機関に所属する研究者として、その健全性において守るべき規範や倫理といったものが厳然と存在する一方で、それを脅かす、あるいは一顧だにしない敵対者ないし活動といったものも存在します。伊与原新「コンタミ−科学汚染−」(注1)は、ジャンルとしてはサスペンス小説ですが、学術研究にも腕に覚えのある著者(注2)の新作にして、それら科学的営みに対抗する、あるいは裏をかく動きに光を当てた、学術研究を志す者としても参考になる書です。
本書には、そのような「敵」として、以下のようなものが出現します。本書の説明を引用します。
さらに、本書の主題として提示されるのは、ニセ科学で頻用される常套句、「万能」「自然」「波動」「固有振動数」あるいは「ナノ量子」といった諸々のキーワードに、非専門家である一般市民が謂れのない魅力を見出し、自ら騙されていくという現象(注3)です。社会や科学が複雑化するにつれて、そのような現象はより根深く、強く、定着してきたように思います。技術や製品を科学的に開発・応用して人類に益を届けようとする研究者にとって、その旨とする営みを真っ向から否定することにつながりかねない、非常に手強くかつ厄介な「敵」です。本書は、それを真正面から捉え、描いています。
〇「敵」との闘いにどう臨むか
取り上げられたテーマゆえ、本書を読み始めた時点では、本書を大絶賛しようと思っていましたが、いざ読了してみると少し悩んでしまいました。
第一の悩みは、そのような「敵」と闘い、退けていくことは、研究者という生業に就いている以上、自らの存立を守る上で当然のことであり、心ある者一丸となって取り組むべきことです。ただ、それにどれほど努力せねばならないのか、努力すべきなのか、本書を読み終わって一層悩んでしまいました。上記のうち、とくに手段であるディプロマミルやオープンアクセスジャーナルについては、 その世評と価値を上げない(さらには、下げる)ことで需要を断ち切ることが有効と考えられます(注4)。その一方で、既に数多あり今後も次々に現れるであろう「ニセ科学」には、いったいどう立ち向かえばよいのでしょうか。本書の重要な脇役として登場する、ニセ科学の糾弾者として全力を奮う教授と助教のコンビも、その信念や、とくに助教の実体験に根差した強い思い(注5)には敬意を表したいと思う一方で、自分がそうしたいか、そうなりたいかと問われれば、自分の持つ限られた時間やエネルギーを投じるにはあまりに際限の無い闘いであって、むしろプラスの価値を生み出す活動に向けるべきなのではないか?という疑問を拭い切れませんでした。
第二に、私自身がどの登場人物にも感情移入でき切れなかったということがあります。ニセ科学の側の人物は言うに及びませんが、それに立ち向かう側のうち、主人公の圭(大学院修士1年)は、研究室枠での就職を望むがゆえに、(上記の助教自身かなりの変人ではありますが、その助教に)「性格破綻者」とさえ呼ばれる指導教官(准教授)の雑用係(それも、自ら「奴隷」と慨嘆します)の身分を甘受する、主体性も矜持も感じられないやわな若者です。その准教授は、実績や能力はさておき、自らを「メジャーで四番を打つような超一流のプロ」(本書p.288)と誇示し、圭を徹底的にこき使う、どうにも好感の持ちにくいキャラクターであり、何よりいまどきこのような典型的アカハラ教員がその存在を許されるものでしょうか。紅一点の女性研究者は、科学的真理に対して愚直に向き合うところは良いのですが、なぜ自らのキャリアを投げ打つ(准教授の台詞を借りれば「研究者としての死」(本書p.46)を選ぶ)までのことをするのか、私には共感し切れませんでした。
とは言え、このあたりの受け止めには、個人差もあろうかと思います。冒頭の合コンのシーンを始め、各情景や個々の登場人物など、細かいところまでよく描けており、面白く頁が進みます。まずは、プロの研究者のみならず、研究者を志す方も、お手に取ってみてはいかがかと存じます。