2017年2月20日
○世界経済フォーラム「グローバルリスク報告書」にみる「敵」の変遷
研究者たるもの、毎年刊行される年次報告的な資料を、いわば定点観測的にサーベイしておくことは、基本的な所作の一つです。私が毎年フォローしている資料の一つが、「グローバルリスク報告書」です。
これは、世界経済フォーラム(通称「ダボス会議」)が毎年公刊しているもので、最新の2017年版はその第12版(注1)です。世界の有識者700余名へのアンケートに基づき、今後10年間に悪影響を及ぼし得る事象やその可能性を抽出した上で、それらのリスク要因を5種類(経済的/Economic,環境/Environmental,地政学的/Geopolitical,社会的/Societal,技術的/Technological)30件程度(注2)に分類し,その蓋然性と影響度を論じているものです。
アンケートという手法の特徴ゆえ,評価がその時々で強く耳目を集めた事件や動向に引きずられる傾向は否めませんが、世界的な社会、経済、技術、環境の諸情勢を広く俯瞰できるとともに、経年的な変化も観察できる、なかなか面白い資料です。
2016年版で最も目に付いた点は、蓋然性と影響度ともに最も深刻と評価された項目の深刻さが一層強まったこと、中でも、過年次報告ではランク外とされていた「大規模かつ強制された人の移動(large-scale involuntary migration)」が、蓋然性で1位、影響度で4位の深刻度として「出現」したことです。
なお、このリスク要因と密接に関連する「深刻な社会的不安定性(profound social instability)」も、蓋然性・影響度ともに悪化しています。「気候変動の緩和と適応の失敗」(蓋然性3位、影響度1位)も、2015年版で一度姿を消しかけたものの、再びリスト最上位に浮上しています(注3)。
2017年最新版では、前年ほど劇的な変化は見られず、蓋然性・影響度のランキングは比較的小幅な変動に留まったといえます。ただし、過去10年程度を俯瞰すると、2007年から2014年までの間、蓋然性・影響度ともに高位にあった「経済的リスク」(たとえば雇用の不足、エネルギー価格ショックなど)が、2017年版ではいずれもワースト5圏外に去った一方で、これに替わって2016、17年版では環境リスク(極端な異常気象、大規模自然災害、気候変動の緩和と適応の失敗)が上位を占めたことが注目されます。
一見すると、2015年版で蓋然性・影響度の両面で急上昇した「国家間の紛争」「国家ガバナンスの失敗」「大量破壊兵器」などの地政学的リスクが、比較的一過性のものであったとも映ります。
ただし、リスク要因間の相対比較は単純ではありません。ある要因の蓋然性・影響度が低下する、他の要因のそれらが上昇する、どちらが生じても同様の結果に至ります。世界情勢がどちらかといえば混迷を深める方向に推移しているとの認識に立てば、「より重要なリスク要因が次々と出現している」との理解がむしろ適切でしょうか。
この報告書を毎年フォローしていて痛感することは、「リスク」あるいはそれへの備えとしての「セキュリティ」を論じる際に、まず念頭におくべきは、「敵」は何かという点であるということです。本報告書は、人間社会が直面する「敵」は多様であり、しかも次々に現れては消え、また現れるものであることを、明瞭かつ深刻な形で示しています。
○違法な人身の売買:「人質の経済学」
2016年版で注目される「大規模かつ強制された人の移動」に関連して、ナポリオーニ「人質の経済学」(注4)は、過激派組織ISの勃興につながる「人質ビジネス」の興隆と現状を具に描き出しています。
詳細は省きますが、9.11後に米国が施行した通称「愛国者法」が国際的なドル取引を監視下に置いたことから、コロンビアの麻薬組織が北アフリカの物資輸送(サハラ砂漠西端からモロッコ・アルジェリア・リビア等に至る)ルートを開拓しつつユーロ決済の道筋をも付けたことで、この物流ルートが誘拐と身代金要求・人質受け渡しのルートとしても機能し始めたこと、同様のルート開拓がソマリア沖やイラク、シリアにも広がったこと、さらには、「商品」である人質の「狩猟」を要さず同様のノウハウが活用できる「難民ビジネス」へも広がったことが、鮮明に描かれています。
残念かつ遺憾なことではありますが、本書により、違法な人身のやり取りというリスクが絵空事でなく、むしろ現実の「ビジネス」として定着し、そしてそれがISのような過激派ないしテロ組織の資金源としても機能していることに、瞠目せざるを得ません(注5)。
○国際政治の視点
ユーラシア・グループ「2017世界10大リスク」(注6)は、数年前に「Gゼロの世界」すなわち世界で主導的な地位を果たす国が姿を消し、国際社会が海図を失い漂流を始めるという世界像を提示した同グループが、2017年の世界情勢を占った、刺激的な報告書です。 10大リスクに挙げた要因の第一、そして他の要因のドライバとしても作用する最重要のものが「わが道を行くアメリカ」です。言うまでもなく、アメリカ第一主義を標榜するトランプ政権の誕生が、米国内のみならず国際的にも様々な影響を及ぼして行くことを予想しています。
軍事面ではためらわず実力行使に踏み切る「タカ派姿勢」、経済面では飴と鞭を使い分ける積極的な政策介入、そしてより影響の大きな変化として「価値観」の変化、すなわち国際秩序の源であった条約や協定の否定と、よりビジネスライクな二国間交渉を通じた臨機応変な価値観の使い分け、などです。その波及的影響として、主要国との同盟関係の弱体化、国際的な制度的秩序の弱体化、中国の台頭とアメリカとの対立の激化、ロシアの暴走を挙げています。
その他9つのリスク要因とも合わせて、2017年の世界は「地政学的後退期」に入り、「国際的な安全保障及び経済取引それぞれの枠組みの弱体化及び世界最強の国々の政府間の不信の高まり」を招くという、何とも不気味な(しかし否定することの難しい)描像を提示しています。
この報告書の提示するリスク要因の顕在化の程度や可能性を占うことは難しいですが、これらの「地政学的な後退」は、ダボス会議報告が挙げている個別のリスク要因のいずれに対しても拍車をかけることになります。主要国の協調と粘り強い交渉の努力が、いよいよ重要な局面に入っていくことになるでしょう。
○グローバルビジネスの視点
世界的なリスクは一義的に国家の問題ですが、グローバル化した経済の下では、企業活動にも直結するものです。
デロイト・トーマツ社が国内上場企業435社を対象として実施したアンケート調査(注7)によれば、国内の企業活動において「最も優先して着手が必要と思われる」リスク・クライシス(3項目選択)は、「地震・風水害等、災害の発生」(37.0%)、「法令遵守違反」(25.3%)、「情報漏えい」(22.8%)の順となっています。
対して、海外拠点において最も優先すべきリスク・クライシスは、「法令遵守違反」(18.2%)、「災害の発生」、「テロ等の発生」(ともに16.2%)と、上記ダボス会議報告と符牒する結果となりました。世界的な社会の不安定性や、その結果としてのテロ等の発生は、絵空事でなく現実のビジネス上の最優先懸念事項として浮上しているのです。
しかも、上記の人質・難民ビジネスがそうであるように、これらのリスクもグローバル化しています。ある箇所でリスクを抑止ないし制御できたとしても、そのようなリスクを惹起する行為への需要が存在し、供給手段の手当が可能である限り、時と場所を変えて再び出現するものと予想せざるを得ないのです。
とくに海という自然の国境に囲まれた日本人としては、これらのグローバルリスクは遠い世界の片隅で起こっていることのように思いがちですが、実は日本企業の海外展開などが既に直接晒されるなど、私どもの日常生活との距離を縮めつつあることも忘れることはできません。
問題の規模や深刻さを思えば、単なる一研究者としては嘆息するばかりではあるのですが、大げさかつ僭越な物言いで恐縮ですが、これらリスクへの対処、緩和と解消に向けて、今まさに世界の人智を結集すべきときにある、と申し上げたいと思うのです。