放射線被ばくによる発がん(以下、放射線発がん)のリスクは、原爆被爆者の疫学を基礎として「被ばく線量の増加とともに高くなる」という確率的影響の考えが採用されている。被ばく線量は、単位時間あたりの線量(以下、線量率)と被ばく時間で決まるが、原爆による放射線被ばくは線量率が高い「高線量率」である。一方、自然放射線レベルが高い地域の住民に対する「低線量率」の慢性被ばくの疫学研究では、がんの増加が認められないという成果もあり、放射線被ばくの総線量が同じでも線量率が低いと生物影響が小さくなる「線量率効果」の可能性が示唆されている。
電力中央研究所(以下、電中研)では、がんリスクを科学的に正しく理解する道筋として、がんの発症機構や線量率の違いによる線量率効果を解明することが重要であると考えている。とりわけ、固形がん(血液以外のがん)の標的となる細胞に対する研究を推進している。
がんは、細胞内の遺伝子に生じた損傷が誤って修復された際に起こる、変異の蓄積が原因とされる。この変異蓄積の標的となる細胞は、一定の寿命で入れ替わる機能細胞(機能が特化した細胞)ではなく、機能細胞の源であり生涯に亘って維持される組織幹細胞であると考えられ、過去の研究からも腫瘍発生の起源であることが示されている。従って、放射線影響の標的として組織幹細胞への影響を評価することが、発がんリスクを理解する上で重要である。
電中研では、放射線発がんリスクの高い臓器である「腸管」に着目し、その組織幹細胞である腸管幹細胞の放射線影響を解明する研究を進めてきた。マウスに1グレイの放射線を照射する動物実験において、高線量率照射では腸管幹細胞の入れ替わりが促進されることが分かり、放射線を受けてなお生き残った幹細胞に変異が生じていた場合、変異した細胞に置き換わる可能性が推察された。一方、低線量率照射では、腸管幹細胞が入れ替わる影響は小さいという結果が得られ、線量率効果を確認できた。
また、放射線を照射した細胞の遺伝子解析から、線量率によって活性化する遺伝子群の違いも明らかにした。具体的には、低線量率被ばくした腸管幹細胞に対する、細胞の空間構造がもつ「極性」に影響を及ぼす遺伝子群等の活性化である。細胞は、構成する細胞膜や細胞内の成分の分布や偏り、すなわち「極性」を有しているが、低線量率被ばくはこの細胞極性に影響を及ぼす可能性を示す。
細胞極性の変化は、「細胞競合」と呼ばれる現象でも注目されている。細胞競合とは、同種の細胞集団の中から生じた相対的に適応度が低い細胞が、その集団から排除されることを指す。これは、がん化した細胞が正常な細胞に囲まれた際に排除される現象としても観察され、がん化を防ぐ細胞の品質管理機構のひとつと考えられている。
電中研では、腸管幹細胞を培養することで作られる人工的な腸組織(以下、オルガノイド)を用いて、オルガノイドに含まれる腸管幹細胞の適応度を評価可能な実験系を構築した。放射線を照射した腸管幹細胞と非照射の腸管幹細胞を混合したオルガノイドをつくり、放射線照射の有無による腸管幹細胞の適応度の違いを調べたところ、放射線を受けた腸管幹細胞の割合が減少するという結果を得た。これは、放射線を受けた幹細胞が非被ばく細胞の集団から排除されやすいことを示唆しており、低線量率被ばく時には、放射線を受けた細胞を適応度の低い細胞として、その蓄積を防ぐ仕組みがある可能性を示すものである。この知見は、放射線発がんのリスクが低線量率被ばくで小さくなる、線量率効果のメカニズム解明につながる科学的な証拠のひとつである。
放射線被ばくの線量率効果をより深く理解するためには、他にどのような因子が関与するか、またどのような環境下で効率的に生じるか等、さらなる解明が必要である。
電気新聞 2021年2月17日掲載